女装しながら社会について考える
咲緒あゆみ
まずは何を問題にしているかを説明しましょう。
女装を家の中でこっそりやる限り、社会との接点は最小限に保たれます。当然、危険や悪意、気まずい雰囲気に直面することも最小限に留まることでしょう。しかし、人間は社会的な動物です。社会との接触を絶って長時間1人でいることには限界があります(限界は各人の資質と各人が置かれているそれぞれの環境によって異なりますが・・・。)。他人と共有できない秘密の増大、女装中の行動範囲の制限からくる不自由さはストレスの元にもなります。
女装に関して問題となるのは、このような一人遊びが自発的に行なわれているばかりではないというところです。直接、間接の様々な要因によって非公開であることを強制されている、あるいは強制されていると感じさせられるために、不本意ながら一人遊びせざるを得ない場合は珍しくないのです。前者については強制が不当なものであるならば排除されるべきですし、後者についてはその「感じ」にいわれがないものであるのならば打ち払っていく必要があるでしょう。
以上から、女装を気がねなく長く思う存分深く続けるには、さまざまな社会との関わりは避けられないわけです。そこで本文では社会との関わり、特に私達が感じる様々な強制力が発生する仕組みについてを考えてみようと思います。中でももっとも強制の権威付けに利用されやすい「義務」について重点的に考えます。
私が一番問題にしたいのは強制の正しさについてです。
例えば、「自由を主張する前に義務を果たせ。」とか「義務を果たさないものに権利は与えられない。」という主張を見聞きしたことがないでしょうか?これらは大概、そう唱える本人とその同調者が個人的に望ましいと思っていることを、他人に強制したい場合に良く見られるタイプの主張です。とはいえ、これらの主張は一見すると正論に見えなくもないので、注意して受け取らないと圧倒されてしまいそうです。
本文ではこのような主張が、根本的に誤っていることを示そうと思います。その過程で、自由や平等、権利や義務の原理と仕組みについて考えます。これらのことについて理解すれば、上記の例以外の不当な強制も簡単に見わけやすくなるでしょう。
さらに、このような義務の強調は、しばしば本来義務ではない事柄を義務にリンクさせて強制しようとする論調にも利用されます。そこで、本文では誤って義務に関連付けられ易い幾つかの強制力についても考えます。
社会について考えるための枠組みについてまず考えてみます。
社会は複雑な現象で、一目瞭然というわけにはいかないでしょう。そこで現実の社会から注目したい事柄に関係する特徴を選んで切りだし、模型(モデル)を作ることを考えます。模型は現実に似せて作りますが、現実そのものではありません。
さらにこの模型は論理的、言いかえると定めた規則に従う空想上の存在です。空想上の存在であるためこの模型について知るには、読んだ人が各自で、模型を定義する規則を手がかりにその有様を思い浮かべて、色々試してみる必要があります。
この作業によって模型から空想上で経験を積むことができ、元になった社会のある側面についてこれから述べようとすることはその経験を通じて伝達できるというわけです。(本文中に明文で書かれている内容が全てではないということです。)
社会について考える際にまず考えることは、「あるもの」と「あってほしいようにするもの」の区別です。
「あるもの」とは分析すべき現象としての社会で、人々の関係の中から見出される自然現象のようなものです。「あってほしいようにするもの」とはその現象としての社会の性質を利用して、より暮らしやすい社会環境を実現するために利用される社会的な仕組みで、自然現象に対する技術のようなものです。
(これは社会学の専門用語でいうところの「ゲマインシャフト[1]」と「ゲゼルシャフト[2]」と呼ばれる区別におおよそ対応します。)。この区別は実は固定的なものではなく、自然現象と技術との間に深い関係があるように、相互に深い関係があります。
本文では「あるもの」として、人が物事について「情報」を得て「知る」ようになる過程に注目します。「あってほしいようにするもの」としては社会的仕組みとしての「自由」、「平等」、「権利」、「義務」を主に考えます。
社会的な仕組みはもちろん目的があって、それを目指して設計されているでしょうし、そうであるべきでしょう。目的と一言でいっても明らかではないですが、少なくともより多くの人々が生きていける社会であることが必要でしょう。社会の仕組みの目的としては精神面のことが気になる人もいるでしょうが、それ以前に人間は物質的にある程度の条件が整わないと生きて行けません。例えば人間は生物なので、まずは食料が必要ですし、それ以外にも様々なものが必要です。また、それらを得るためには栽培、生産、交換人々が分業や協力が調整される必要があるでしょう。それらの物質と労力は、まとめて資源として抽象化して考えてみます。すると、社会的な仕組みは、それら各種資源の配分の決定を助ける機能を備えていることが望ましく、少なくともその機能を阻害しないことが必要であるということが言えるでしょう。
本文では社会的仕組みをこの側面から見ます。
社会的な仕組みの一種としての自由について考えてみましょう。
前節で書いたとおり、社会的な仕組みを資源の配分を助ける仕組みという観点から考えるとき、社会が小規模なものであればまだしも、大規模なものになれば、この作業が非常に難しいことに気づくと思います。何故なら、
1. 資源は全ての必要を満たすには不足しています。
2. 社会の規模に応じて、人々の置かれている立場は多様になり必要な資源の量と種類が多様になります。
3. 資源に対する要求には複雑な依存関係が有ります。例としては生産効率と公害、リサイクルとその費用、医療費と予防費用など様々な例があげられるでしょう。
4. 資源の配分決定自身が難しくなるにつれて、それを解くこと自身にかかる資源が無視できなくなります。
といったような要因があるからです。
このうち2、3、4は社会の規模に応じて絡み合いながら複雑さを増します。実際、現在までのあらゆる知識を動員しても、実用的な規模の社会についてこの複雑な問題を十分に解くことはできません。従って、一般に前もって予測に基づいて配分計画を立てることはできません。これが、数多くの独裁国家を挫折させ、計画経済を標榜する世界中の社会主義体制を打ち倒した根本的な原因です(何故、このような欠陥がありながら数多くの独裁の企てがなされ一時的に成功しそうに見えることがあるのかは興味深い問題です。1つには経済を立ち上げる際には要求が順序付けし易いからかも知れません。)。
このように問題が難しく、誰も十分な答えを知ることができないときは、試行錯誤に頼らざるを得ません。このような試行を助けるのが自由という仕組みです。
自由という語はしばしば状態を指す言葉として利用されることがあります。しかしこう定義すると、あまりに様々な状態を含んでしまい、自由が何を意味するかがぼやけてわかりにくくなってしまいます。そこで社会の仕組みとしての自由はむしろ、確たる根拠なしに他者に対して干渉しないことと理解する方がわかりやすいでしょう(これは他者に対する「寛容さ」といわれることもあります。)。
「干渉」と書きましたが、ここではある行為が必然的に他者に干渉するような調整を必要とするケースではなく、ある主張(正しいことも正しくないこともある)に基づいて他者の行動を強制しようとするケースを考えます。また中立的に「干渉」と書きましたが、行なう人の考えや立場によっては干渉のことを「指導」や「侵害」のように色をつけて呼ぶこともあります。
今、定義した「自由」がどのようにして前節のような試行錯誤と関わるかというと、
1. 干渉しないことによって並列的に多様な試行が期待できる。
2. 干渉することそれ自身が資源を要する。
といったような効果があります。
1の多様な試行を並列に行なうことは、偏見によって試行範囲が狭められないようにする(主に言論の自由についてJ.S.ミル[3]が主張した)というほかに、失敗するリスクの分散をも意味しています。2の干渉自身が資源を要するというのは、干渉する側の労力や交渉のために双方が払う労力を含みます。
このような理由で、干渉することが正当化されるほどのメリットが明らかになっていない限り、干渉を行なうことはリスクを押し上げ不経済を招きかねない行為だと言えます。比喩的に言えば、知ったかぶりをして他者を指導しようとする人は、訳もわからずに人々を海に飛び込もうとしているレミング[4]の群れに押しこもうとしているかも知れないのです(各レミングがバラバラに走っていれば飛びこんでしまう場合は一匹づつで済む・・・。)。
ちなみに、ここで言うリスクが現実のものになった場合に、試行を決断した本人にハネ返ることを「責任」を取ると呼ぶわけです。そして「責任逃れ」とは試行を決断した人でない人々に振りかかるように仕向けることといえます。
まとめていえば、他人に何をさせたら良いかについて、無知を自覚するならば自由に任せるしかないということです(これは古代ギリシャの哲学者ソクラテス[5]が言うところの「無知の知」の社会的な仕組みへの応用といえます。)。
・・・で、無知の自覚がないままに他人に何かを強制しようとする人に分かってもらうには・・・ソクラテスにならって質問攻めにするしかないかないのかも知れません。
社会的な仕組みとしての平等の原理は基本的には自由に似ています。自由は特に知識がない場合の行動指針でしたが、平等は特に知識がない場合の分配指針です。内容は特に根拠となる知識がない場合には資源を等分するというものです。
ただ等分する根拠は自由放任の場合と若干違います。資源を獲得しようとする行動自身が資源を必要とし、多くの資源があればあるほど資源の獲得は容易になるので最初の配分で偏りがあると、より適切な配分へ向けて資源をすばやく移動させることが妨げられる傾向があるのです(この現象は経済学において、産業革命期のイギリスでの経済現象を観察していたカール・マルクス[6]が具体的に提示して有名になりました。)。
だから、「差別」が問題になるのは、資源配分の偏りを正当化できるだけの合理的な根拠となる知識がない「不合理な差別」の場合です。例えば、人種、性別、思想、信条などで多様な人々を一括りにする乱暴な論に基づく差別は、十分に合理的な根拠を欠いている「不合理な差別」と考えられています。逆に能力給、業績給に見られるような差別は一定の合理的な根拠があると考えられるので、(まともに運用されている限りは)「合理的な差別」だと言えます。
社会的な仕組みとしての権利について考えます。ここまで盛んに、「知識がないならば」と書いていますが、部分的にせよ知識がある場合はどうするか、というのがこの節のテーマです。
さきに自由の説明をしたときに書いたとおり、前もって包括的な計画を立てる形で資源配分を決定することはできません。しかし、様々な情報の分析によって得られた知識を利用すれば、相対的に望ましいことに資源が利用されることを促進したり、逆に避けた方が良いことに資源が流れることを抑えたりすることができます。「権利」とは「自由」や「平等」が基づいている「無知」に対する「知識」による相対的な修正だと考えることができます。
無知を具体的に行動に移したものが「放任」でしたから、無知に対する修正である権利を行動に移すことはある種の「干渉」ということになります。
しかし各人がいきなり行動に移す場合は、社会的な仕組みが関与する余地はあまりありませんので、社会的な仕組みとしての「権利」を考える場合はまず干渉行為の前代階である、他者に対する「要求」に注目します。
権利とはこの要求を特徴によって分類し、望ましいと思われる根拠があるようなタイプの要求の実現を公的な機関が支援することだと定義できます。(支援のしかたは根拠の明確さ、社会的な有効さによって様々です。公的機関が要求者に成り代わって行なってしまう場合から、資金援助、優遇策、単なるリップ・サービスでお墨付きを与えるだけのものまで考えられます。)
法律とはこのような「権利」とそれに関する支援策のカタログだと言えます。
つまり、権利とはまずは要求ありき[7]であるわけです(辞書を引いてみると、英語で権利を意味するrightは正しい要求を意味するright requestが語源だそうです。)。これは逆に考えると、要求が発生しない限り社会的仕組みが稼動しないこと(計算機用語に詳しい人には要求駆動あるいはイベント・ドリブンというとピンと来るかも知れません。)を意味するので、実に効率の良い仕組みだと言えます。つまりまずは各人の自由に任せ、それを部分的に効率良く修正する仕組みが権利であるわけです。その修正の具体的な応用として、権利は自由な行動が他者に干渉してしまったときに干渉の正当性をすばやく判断するためにも利用できます。
さて、権利と似たものに人権があります。
人権こと基本的人権は、個人に関わる権利の幾つかを特に重く見て強化したものです。具体的には、要求の意思を明らかにしていなくても、絶えず要求があるものと見なすという形に強化されています。
これは裏を返して言えば、人権に対して義務を有する側は、明らかな要求がなくても絶えず要求が実現された状態であるように注意を払う必要があるということです。
したがって純粋な権利の場合には要求が起こるまで何も動かなかったのとは大きく違っています。このため基本的人権のように強化された権利は、実現するには権利に比べて余分な資源を必要とすることがわかります。
例えば「生命の自由」という人権を侵す行為の1つに「殺人」があります。公的機関(警察、検察、裁判所等)は被害者の要求がなくても殺人が起こらないようにするために努めています(警察がパトロールを行なうなど)し、起こってしまった場合も特に要求がないままに再発防止に向けた措置(犯人を探して事件を究明し、必要ならば犯人を社会から隔離する。)を取ります。
実際問題として殺人の被害者本人は既に死んでいるので、自分で要求できないわけで、このことが生命尊重と合わせて「生命の自由」がただの権利ではなく人権に強化されている理由でもあります。つまり要求駆動である権利の効率の良さに優先するほど生命は重くかつ緊急の課題であるということです。逆にいうとそうでもないものを安易に人権として組み込むべきではないということでもあります[8]。
ここにあげた「生命の自由」以外にも「身体の自由」「財産の自由」「思想、信条、言論の自由」「結社、集会の自由」など、いくつか「自由」と名のつく人権があります。これらはそれらを規制しようとする知識が欠けていることを改めて強調して権利化し、さらに強化して人権としたものです。
人権は歴史的には国家との関係で生まれましたが、もともと仕組みとしては原理から考えても権利の要求先は国家には限られないと私は思います。昔のように国家が圧倒的に優位だった時代ならば請求先を国家に限っても実質的に問題はなかったでしょうが、企業が大きな力を持つようになっている昨今では請求先には国家以外も考えられるとするのが適当でしょう。
ところで、日本国憲法の人権の規定には必ず「公共の福祉」という留保がついています。しかし元々、権利とは知識による無知の修正なので、新たな知識が明らかになれば修正されて当然のものです。そのことを考えると「公共の福祉」のような留保がワザワザ記されているというのは妙な話です。妙な話なので、理由や解釈についてはイロイロな説があります。ありそうな線としては、日本国憲法の改正は著しく難しいので、多少のことは解釈で切り抜けられるように釣り合いを取ったということかも知れません。しかし、そうであるとしても、権利が知識を表現したものであることを考えれば、安易に濫用するべきではありません。修正を行なうに足る確固とした根拠、知識が明らかにされるべきです。
社会的仕組みとしての義務について考えます。といっても仕組みとしては権利とウラオモテですから、見方が変わるというだけで新たなものはありません。
権利のような干渉を干渉される側から見れば、公的な支援を受けた強制以外の何物でもありません。このような公的な支援を受けた強制を総称して「義務」と呼びます。
例えば借金の返済を求める権利である「債権」を逆に要求される側から見れば「債務」という義務があることになります。裏返して言えば、「義務」の裏側には必ず要求があり、要求者がいて、要求を「権利」として正当化する社会的根拠となる知識がある筈なのです。つまり要求、要求者、正当な理由がない限り「義務」は成り立たないのです。ここでいう正当な理由は単に「規則に定められている」だけではありません、場合によっては規則そのものの正当性をも疑ってみようということです。
義務や権利は分かり易いし、膨大な数ある法律の大半の規定は権利や義務のカタログなので、目を奪われてしまいます。しかし、自由や平等を基礎付ける無知、すなわち知識の欠如
は、自由についての節で述べたように今でも圧倒的です。言いかえると私達の行為の殆どは自由や平等の範囲にあるということです。自由や平等の中身は様々であり、人によっては推奨するようなことも、人によっては嫌悪されるようなことも、どちらでもないことも含まれます。だから、特に義務でないことは自由に任されるべきだし、どんなに強く主張しようとも、義務(や権利)の要件を欠いていればそれは義務(や権利)ではないわけです。
以上で一通りの説明が終わったのでまとめて見ます。最初の問題にも証明を与えます。さらに義務以外の強制力についてもざっと検討してみます。
冒頭で「自由を主張する前に義務を果たせ。」とか「義務を果たさないものに権利は与えられない。」との主張が誤りであることを示すと書きました。ここまでの説明で分かるとおり、様々な自由、義務、権利はそれぞれが根拠となる独立した知識に基づくものであって、仕組みとしても独立のものであり、特にリンクするだけの根拠がない限りリンクされないのです。
ちなみに義務は権利を逆から見たものなので、文中の「義務」は「権利」を使って書きかえられます。例えば、「自由を主張する前に義務を果たせ。」は「自由を主張する前に(他者が主張する)権利xを受け入れよ。」となり、「義務を果たさないものに権利は与えられない。」は「(他者が主張する)権利xを受け入れない限り、あなたの権利yは認められない。」となります。こう書きなおせば、主張のオカシサ加減がわかりやすくなるでしょう。特にこれらの文中では、限定がないので権利xやyとして任意の権利が当てはまることになり、そのオカシサもヒトシオです。
義務のようにグローバルな強制力以外にローカルな人間関係で発生する強制力があります。最後にそれらについて考えてみます。これらは義務のように公的な支援を受けてはいないのですが、強制しようとする人々と付き合おうとする限り発生してしまうものです。それに従うか、従わないでその人と付き合うのを止めるか、はたまた説得に努めるかは各人が秤にかけて決める必要があります。
以下、発生源となる人々との人間関係の種類によって分類します。なぜなら直接に強制を押しつけてくる相手が、強制力の源とは限らないからです。目の前の相手がどういう経路で強制力の発生源から強制を伝達されているかを理解することで対処法が見つかることがあります。
強制力の発生源と直接オツキアイしている場合です。
変化を嫌い、新しいことを学ぼうとしない保守主義者(具体的には、何を守ろうとする保守主義者であるかによって様々な呼び名がある)は、既得の枠組みに周囲の人間を従わせようとします。
彼が置かれている状況に変化がない限り保守主義はそこそこうまくいく(保守主義の経済性)ので、彼に新たなことを学ばせるのは容易ではないでしょう。実際、黙認してもらうだけでも苦労することがままあります。
対等な交友関係ならば、ウザッたい要求を無視できる程度に距離を置いて付き合えばいいだけなので、比較的話は簡単ですが、以下で述べるような人間関係の中で出会うと困った相手になります。
不合理な強制力の発生源が自分の、あるいは自分の所属組織の顧客である場合です。自身の客ならある程度選ぶテもありますが、所属組織の客だと選ぶのは難しいでしょう。
また将来そういう人間が客になるかもしれないという理由で、現に今はいない場合でも、組織からさまざまなことを強制される可能性はあります。
ただ、これはビジネスの関係だけに比較的ドライに解決できることがあります。例えば、そんな顧客を蹴ってもいいだけの実績をあげるとか、あるいは営業なんか止めてアッサリ転職するとかです。
不合理な強制力の発生源が自分と同じく相手の顧客である場合です。
発生源のほうが多数派であったり、相手と発生源の指向が似ている場合に起こります。
将来そういう人間が客になるかもしれないという危惧を持たれるのは先ほどの事例と同じです。
これはビジネスの場合は先ほどの事例と同じく、ドライに解決できることがあります。しかしそうでない場合、例えば趣味のイベント等の場合は結構イヤな思いをさせられることもあります。それがマイナーな分野である場合、選択肢が少ないので深刻な問題になる可能性もあります。(といって自分でイベントを起こすのは不可能ではないにせよ結構大変・・・。)
不合理な強制力の発生源が親族、特に同居の親族である場合です。血は水より濃い[9]というのが本当かかどうかは知りませんが、愛情で結ばれた関係を通じてもたらされる強制力というのはなかなか抗いがたい力を持っているようです。揉めたからといってアッサリ切り捨てるのも難しい相手なので大変です。
ただ一つの救いは対象となる人数が限られることです。黙認でもいいから、一旦認可を勝ち取れば一生モノです。あまりヤケを起こさずに説得に努めましょう。
以上のように、権利・義務やその他の様々な強制力について詳しく知ることは何の役に立つのでしょうか。
一つには、女装を始めとする自身の行動についてある程度の自信を持つために役立つはずです。例えば、女装は社会的には、一般に自由であり、その自由はみだりに侵されるべきでないといえます。また特定の人間関係を通じて強制された場合(例えば女装の忌避など)でも理由がわかれば、対処しやすくなりますし、精神的にも罪悪感を持つこともなくなるでしょう。
二つには、他の人を説得する際に役立つからです。ここまで書いてきたような権利・義務や強制力の仕組みは一般的なので、目前で強制されている特定の事柄(例えば女装の忌避など)だけでなく、強制しようとしている人を含めた他の人々の日常に起こる事柄の把握・理解にも役立ちます。つまり説得される相手自身にとっても、説得を受け入れることで得るものがあるということです。
最後に、今回取り扱わなかったことを挙げます。主なものは:
¨ 権利の承認過程(主に立法)
¨ 権利間の優先順位(法の機能)
¨ 衝突した権利の解決過程(主に司法)
の3つでしょう。いずれも社会的な仕組みでは実際問題として大切ですが、今回は簡単のため省略しました。
日本においては、社会的に過保護、過干渉で保守的な要素が強く現われています。このため社会全体に個人の自由や権利を抑圧しようとする傾向があります。これは別に「民族としての性質」というわけではなく、歴史的に醸成され継承された社会的な性質であると考えられます。それは明治初期からの富国強兵策、第二次大戦中の国家総動員、戦後の高度成長期を通じて強化された計画的な経済運営の後遺症だと考えられるからです。これらの政策は時代に応じて、当時の欧米諸国からの植民地化の恐怖、豊かな生活への憧れ、一旦得た豊かな生活を失うことへの恐怖などに後押しされて支持されたと考えられます。
具体的な後遺症の例としては、数世代に渡って育てられてきた計画的な人生を無闇に尊ぶ安定指向や目的のはっきりしない組織防衛意識という症状があげられます。また社会的な表われとしては高度成長期に成長してしまった各種の分配結託(系列、談合、官民癒着、贈収賄・・・)という症状が上げられます。
計画的な経済成長を行なう上で、これらの症状は社会の変化を抑制して計画を協力して推進する力を生み、計画的な経済運営から無駄を省くことによって、ある程度+の役割を果たしました。社会が計画通り経済的に成長しつづける限り、大多数の人は計画の効率性(実際、計画を立てられさえするなら計画的な経済は効率が良い)を信じることができ、ある程度の不自由には目をつぶることができたわけです。
しかし成長がある程度達せられた結果、人々が抱く要求の多様な姿が正体をあらわし、それにつれて計画的な経済運営は本来の難しさを取り戻しました。不適切な計画が乱立し、それらの計画は頓挫し勝ちになって経済成長は鈍くなりました。今となっては計画的な将来の経済成長に期待は託せず、残ったものは上手く行かない計画を遂行するための社会的安定と引き換えの不自由さだけです。
先の希望のない不自由さは感情的な閉塞感をもたらすのみならず、各人の自由な指向錯誤を阻害して−の影響をもたらすものです。しかし安定指向や組織防衛意識は分配結託を後押しし、分配結託は本来なら資源を他に譲るべきであるような役目を終えた組織に資源を過剰に配分し続けようとするというように、これらの症状は相互に強化し合っています。このため−の効果が不景気として顕在化している今でさえ中々変化は起こりません。
悪循環の輪はどこで断ち切るべきでしょうか?自然に切れて行く部分もあります。例えば、世代交代によって現状への適応がゆっくりと進み、安定指向や組織防衛意識は弱くなっています。ただ、それにだけ頼るわけにはいきません。悪循環を断ち切る第一歩は、各々の立場でそれを理解し、明らかにしようと努めることです。
起こっていることが具体的に明らかになれば、それは有用な知識として広まっていき、循環を断ち切る必要を認めた人々の間で共有の道具となります。
ここまではなかなか大仰な話なのですが、逆に希望を持てることもあります。経済的にマズイ状況を打破するためには、自由の機能を再認識することが必須です。そのために一見絶望的に見える指向や嗜好に関する自由もまた認められるチャンスが訪れることが予想できるのです。
[1] テニエス(1855〜1936ドイツ、社会学者)が提唱したゲマインシャフト(Gemeinschaft) こと共同社会は、ゲゼルシャフトに対して、人間意志の完全な統一がみられる自然的・有機的な人間結合をさす。村落、家族など。
[2] テニエス(1855〜1936ドイツ、社会学者)が提唱したゲゼルシャフト(Gesellschaft)こと利益社会は、ゲマインシャフトに対して、目的意識的な人為的・機械的結合をさす。政府、株式会社、大都市など。
[3] 参考:「自由論」J.S.ミル 著、塩尻公明・木村健康 訳、岩波文庫
[4] レミング:タビネズミとも言う。齧歯(ゲッシ)目ネズミ科。体長15cm、尾1.3cm程度。体はずんぐりして,背面は濃い褐色,腹面は淡い。スカンジナビア半島に分布。夜行性だが、昼も活動、草、葉、樹皮などを食べる。地面に穴を掘って群居する。1腹2〜子。周期的に大発生し、極限に達すると大移動をする。このときは大群がまっすぐに進み、湖水や海にとび込んだほとんどが死滅する。森林害獣であるだけでなく、大量溺死(デキシ)して水源を汚染することもある。(平凡社マイペディア百科辞典より)
[5] 参考:「ソクラテスの弁明・クリトン」プラトン 著、久保勉 訳、岩波文庫
[6] 参考:「賃労働と資本」カール・マルクス 著、長谷部文雄 訳、岩波文庫
[7] 参考:「権利のための闘争」イェーリング 著、村上淳一 訳、岩波文庫
[8] 例えば、近年「公然猥褻」がインターネット関連で拡大解釈されている。そして特に要求がなくても警察が取り締まることになっている。しかし、どう考えてもワザワザ警察機構を動かすことを正当化できるほどの緊急性はなく重要とも思えない。そのうえ猥褻の有害性に関する知識は曖昧なので判定も容易でなく、さらにコスト(資源)がかかる。禁止も干渉の一種であるから、このような動きは「猥褻なものが(見たい人、見てもいい人も含め)誰からも見えないようにする」ことを人権化しようとする動きであると考えられる。果たして、これは正当化できるだろうか?
[9] 血縁の絆が強いことのたとえ。